個人の効用より全体効用を優先できるか


オープンソースとか、レッシグのフリーカルチャー関係の本を読んでる途中で、人は他の人類のために自分の欲を完全に捨てられるのかを考えてみた。

例えば、魔法使いがやってきて自分に画期的な技術能力をくれたとする。例えば、どんなジャンクな食事を取っても健康的に過ごせる薬の開発技術とか。もちろん、副作用はなし。一粒10円ぐらいで非常に安価。この能力を使えば全人類を幸福にできるし、自らの富も創造できる。名誉もえられる。みんなブラボーって言ってくれてみんなハッピーになるわけです。

しかし、この魔法使いはもう一つの選択もくれるとする。この技術を自分にくれるかわりに、次の日から全人類は、その技術の恩恵を自然に最初から持っていたものにできる。つまり、薬なんて開発しなくても常に健康体で食いまくれる力を全員が持ち、みんなそれを当然のこととして生きる社会。

前者では自分で富を創造でき、感謝もされ、人類も幸福になる。後者では、全員に薬を渡す効果と同じなのでより人類は幸福になるけれど、誰も自分がした役割には気づかない。この場合、タダで人類に奉仕して、評判という効用を得るということも一切できない。誰も自分がした偉業は認識しない。

富は稼げなくても社会貢献をして尊敬されたり、評判がよくなったりする効用によって動く人は大勢いるわけです。稼げなくても他人に感謝されると嬉しいし。でも、この問題のポイントはそういうメカニズムも一切発生しないということ。

ちょっと悩むけど、自分だったら前者を取っちゃいそうな今日この頃。前者を取るということは、本当の意味でみんなの役に立ちたいって言えないかもしれない。正確にいうと、みんなの役に立つことで、自分も豊かになりたい、感謝されたいという感じなのかな。